きのうの午後はふと思い立って、四ッ谷龍『夢想の大地におがたまの花が降る』をぱらぱらとめくってみた。そしてさいごの連作「おがたまの花」で手を止めて、まるでよその土地の言葉を読んでいるみたいだ、と思いつつじっと眺めた。
この「よその土地の言葉」という感触は、ひとつには異国のそれで、またひとつには異界のそれを指している。
●異国の言葉
「おがたまの花」には外国の詩を俳訳したような硬質な品、一枚の薄紙をはさんだような手触りがある。この連作は、原詩も読んでみたい、という倒錯的な欲望をかき立てる。
●異界の言葉
芥川龍之介に陶淵明や王維による桃源詩の俳訳がある。
四ッ谷は〈夢想の大地〉という異界を桃ならぬおがたまの花に託して描いた。そしてそのとき芥川龍之介と(そしておそらく多くの俳人と)決定的に違ったのは、別天地の活写を神話的文脈におもねらず、その代わりに数学用語をつかって成したことだ。
神話の援用というのは難しいもので、しばしば作品をワンパターンな救済の物語(疑似宗教)に陥らせてしまう。その点、数学用語をもってきたのは四ッ谷の創意であり、またこれを用いての記述は、別天地というものの併せもつ非人間的な美しさと冷たさとをよく表現している。
念のため補足すると、20世紀以降の数学はもはや純粋な真理ではなく、任意の形式にすぎない。だからここでの数学用語のメリットは、つまりプラトニズムに傾倒するたぐいの解釈を句がよせつけない、という点にある。四ッ谷の書きぶりもまた、決して象徴主義的でも黙示録的でもない描写に冷静に留まることによって、真理を性急に掴み取ろうとするのを慎んでいるようにみえる。
おがたまの降る世界。それはいかに手の届く場所にあろうとも厳然たるよその土地だ。あるいはそれは〈夢想の大地〉である以上、にんげんにとって〈死の写像〉といえる場所なのかもしれない。
この「よその土地の言葉」という感触は、ひとつには異国のそれで、またひとつには異界のそれを指している。
●異国の言葉
「おがたまの花」には外国の詩を俳訳したような硬質な品、一枚の薄紙をはさんだような手触りがある。この連作は、原詩も読んでみたい、という倒錯的な欲望をかき立てる。
●異界の言葉
芥川龍之介に陶淵明や王維による桃源詩の俳訳がある。
桃咲くや砂吹く空に両三枝 芥川龍之介
桃咲くや日影煙れる草の中
桃咲くや泥亀今日も眠りけり
桃咲くや水に青きは鴨の首
白桃はうるみ緋桃は煙りけり
川上や桃煙り居る草の村
四ッ谷は〈夢想の大地〉という異界を桃ならぬおがたまの花に託して描いた。そしてそのとき芥川龍之介と(そしておそらく多くの俳人と)決定的に違ったのは、別天地の活写を神話的文脈におもねらず、その代わりに数学用語をつかって成したことだ。
神話の援用というのは難しいもので、しばしば作品をワンパターンな救済の物語(疑似宗教)に陥らせてしまう。その点、数学用語をもってきたのは四ッ谷の創意であり、またこれを用いての記述は、別天地というものの併せもつ非人間的な美しさと冷たさとをよく表現している。
念のため補足すると、20世紀以降の数学はもはや純粋な真理ではなく、任意の形式にすぎない。だからここでの数学用語のメリットは、つまりプラトニズムに傾倒するたぐいの解釈を句がよせつけない、という点にある。四ッ谷の書きぶりもまた、決して象徴主義的でも黙示録的でもない描写に冷静に留まることによって、真理を性急に掴み取ろうとするのを慎んでいるようにみえる。
おがたまの降る世界。それはいかに手の届く場所にあろうとも厳然たるよその土地だ。あるいはそれは〈夢想の大地〉である以上、にんげんにとって〈死の写像〉といえる場所なのかもしれない。
木(ぼく) A のおがたま B へ写像せる 四ッ谷龍